「写真が語ることと、写真では語られなかったこと」

 


久万美術館「歸去來兮」展の関連イベントとして、面河小学校中高学年九名 を対象にワークショップを行った。当日、児童全員に、自宅から一番古い写真をもってきてもらった。夏休みに、古い写真のことを知っている家族とその場所へ 行き、現在の写真を撮ることを宿題とした。また、子どもたちがこの土地で残したいと思っている風景を写真で残そうという課題も出した。昭和初期や戦後間も ない頃の写真が集まることを期待していたが、この土地の住民が写真機を手にするのは昭和五〇年前後だということがわかる。今となってはカメラ付き携帯電話やデジタルカメラにより、だれにでも身近な写真であるが、四十年前 までは高級品であり、裕福な家庭の趣味道楽であるか、写真館や観光地で記念写真として扱うことができないない貴重なものであった。親や祖父母が残したわず かな写真から何を読み取るか?定点観測の写真からは、月日の経過によって語られることがある。と、同時に、切り取られた枠の外側のことを想った。私たち は、撮影者の個人的興味を元に残される風景と、政治的資料として意図的に残された風景のみを目にする。私は、写真に写っていない時間を想像しながら、おじ いさんやおばあさんを訪ねた。

 

久万は明治中期から林業で栄え、急斜面の土地に家を建て、人はにぎわいを増す。土佐と松山を結ぶと土佐街道があり久万の旧街道には宿屋も多かった。山に囲まれた久万には海の魚を売りに来る商人もいたという。おそらく、仁淀川の川筋を通って奥地まで来ていたのだろう。

面河で林業が盛んになるのは昭和三十年 頃だという。それまでは「夏は畑、冬は三椏」と言われる程、和紙の材料となる楮や三椏の産地であった。「春はこのあたり一面、三椏が黄色い花を咲かせてき れいだった」という。三椏の他に、炭焼き、お茶が主な産業であり、焼き畑が行われていた。炭焼きで出来た炭を運ぶことで子どもたちはお小遣い稼ぎをしてい たという。昭和三十年を過ぎる頃、産業に変化が見られ始める。高度成長期、建築用材の需要が増え、主な産業は林業に変わる。女性も働き手となりテンコロを使って木材を運んだ。昭和三十二年、国土総合開発の名のもとに、笠方集落があった土地に面河ダム建設が始まる。その地域に住み続けていた人たちの移住が強行された。また、かつては片道四時間以上かけて登った西日本最高峰霊山「石鎚山」の中腹まで車で行ける「石鎚スカイライン」の工事は昭和四〇年から約五年の歳月を経て行われた。総工費二十一億五千四百万円(完成までには災害復旧や防災工事も含み五十億円)投入、面河村関門から土小屋まで十八、一キロの道を作るため、路線の七カ 所にヘリポートを造成し、ブルドーザーやトラック、プレハブ住宅などを空輸して作業拠点をつくり、着工が始まった。山を削って余った大量の土砂は、搬出す る道がないため谷へと落とした。群青色に澄んだ面河渓谷の上を土砂が覆った。集落にはトラックが行き交い、国道沿いでは傾きかけた家もあったという。「あ の時代だったからできたことだ。いまだったら税金の無駄使い、自然破壊と言われて出来なかったことだろうなぁ」という。現地の住民は日当四百円(当時:米一升百円程度)で働き手となった。面河地区には、パチンコ屋が二件あり、散髪屋や飲み屋はかなり繁盛していたという。昭和四十二年(明治百周年記念)に面河渓谷が「国民の森」に指定され、昭和四十五年九月一日スカイライン完成(当時の通行料は千二百円)、面河村を通る三四一号線の休日は渋滞が続いた。その観光客を目当てに出店で商売もしていたという。昭和五十五年頃までそんな風景だったという。国税調査のデータによると現在面河地区の人口は七三〇人(平成二十一年十一月時点)であるが、昭和二十五年では四九七三の人が住んでいたというがわかる。今の閑散とした風景しか知らない私には想像し難い風景である。このような風景は、ダムや道路の公共事業や炭坑現場によく見られたものだということに、今更ながら気がついた。その時代の数枚の写真を見ながら、人々の活気を想像することしかできない。

代々引き継がれていたこの土地の人口が少なくなることは、一度関わりを持った私にとっても寂しいことである。いつまでも、「帰りたい場所」として、この場所が息づいていてくれることを願いっている。